踏切

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踏切が好きです。

特別、鉄道に造詣があるわけではありません。
しかしどういうわけか。僕はどうしようもなく、この空間に魅せられてしまうのです。
その証左として、衝動的に記録したくなった踏切の姿が、スマホの写真フォルダーにはたくさん、収められています。ふとした瞬間、なにげない日常の一コマとして、とても大事にしたいと思う写真たちです。

風に乗って聞こえてくるのは、電車の接近を伝える駅のアナウンス。目の前ではけたたましく響く警報機の点滅。あたりには、遮断機が降りる前に通過し損ねた歩行者たち。そして遮断機越しに爆音を立てながら走行していく電車の迫力。その風圧、迫力。

早朝、ラッシュ時の喧騒を切り取る姿。
昼下がり、閑散とした街にポツンと取り残されている哀愁ある姿。
真っ赤な夕焼けを背景にしたノスタルジックな姿。
シチュエーションによって見せる表情の違いがまたいいんですよね。
踏切、好きです。

しかし、あるとき、僕はふと気づいたのです。
それまではただ漠然と「好き」だと思っていた僕は、実は踏切がはらむ「暴力性」に魅せられているのではないかと。その空間に析出する「分断」が、ある種の前近代的な秩序が、潜在的な安心感をもたらしてくれている。だからこそ僕はどうしようもなく、その存在に心惹かれてしまうのではないか。

何が言いたいのか。それは端的に言い直せば、踏切とは「圧倒的に無慈悲な存在」であるということです。一度遮断機が降りてしまえば、「向こう側」に行きたいという私たちの意思は有無を言わさず踏みにじられてしまう。我々がどれほどの事情で急いでいようとお構いなし。抗えない確実な秩序として、踏切は私たちに「諦め」を強制してきます。そこに交渉の余地はなく、この文脈において、踏切はある種の暴力性をはらんだ存在なのです。
外大生の皆さんであれば、西武多摩川線が多磨駅のホームに進入してきたのに、自分がまだ改札にいる瞬間を想起してみてください。12分に1本しかやってこない、武蔵境行きの電車が眼前で発車する絶望的瞬間。そこにはいつだって、無慈悲に踏切が立ち塞がっていますよね?笑

しかし「歩き続ける」プレッシャーに溢れたこの世界において、立ち止まることを強いてくる存在というのはなかなか珍しい。
しかもその暴力性は、その場にいる歩行者、走行車両全てに分け隔てなく適用されるのです。一度警報機が鳴り出したら、ママチャリだろうと、三輪車だろうと高級外車だろうと関係無し。誰もが、じっとその場で踏切が開くのを待つことになります。そこに特権は存在しません。「特別扱い」が横溢する世の中において、スタートラインが揃えられる場面というのも珍しい。そうやってある種の一体感を創出する踏切が体現するのは「秩序」の存在であり、僕は内心、その存在に安堵を覚えているのかも知れません。
そうなのです。
ある種の暴力性を内包することで、踏切は、その場すべてを司る「秩序」たり得るのです。そして強権的に秩序を作り出す踏切の姿に「頼れる存在感」を見出してしまうのは、僕だけなのでしょうか。それとも「大きな〇〇」という既存の秩序が崩れつつある世界で生きる現代人のサガなのでしょうか。

そのため踏切と対比されることが多い交差点は、「秩序」という文脈においては、踏切とは似て非なる存在と言えるでしょう。
交差点。信号待ちをするあの空間に、踏切待ちをするときのような一体感、秩序の析出は(少なくとも僕には)感じられません。
遮断機も警報機も存在しない交差点においては、その気になれば誰もがたやすく信号無視を出来てしまいます。
この空間では時として、律儀に交通ルールを守っている人が損をしているのではないかと思う場面に出くわすこともあることでしょう。それくらいに秩序の存在感が希薄なのが、踏切と比較した交差点のカオスさなのです。恐らくこの文章を読んでいる方の中でも、踏切の無謀横断をしたことがある人はごく少数でしょうが、信号を無視して交差点を渡ったことのある人はかなりの数にのぼるのではないかと思うのです。

だからこそ、誰もが心の中に理性の遮断機を設定して、律儀に信号待ちをしているような交差点の光景には、踏切によって作り上げられる秩序以上の価値があると思ったりもするのです。
交差点は、踏切と違って明確な「上からの秩序」が存在しない空間です。だからこそ交差点で信号を守って誰も道路を渡らないような場面は、そこに存在する全ての人の「意思」によって達成されている秩序に相違ありません。だからこそ、そこに人の善意を見出すこともできるし、逆に人の悪意も頻繁に顕在化する。

ところで、今年の外語祭のキャッチコピーは「世界と僕らの交差点」でした。

ネーミングした人たちはおそらく、他文化との「出会い」をイメージして名付けたことと想像しますし、素敵なポスターを描かれた先輩の素敵な解釈も必読です。
が、僕はこのキャッチコピーに独自の、外語祭への期待を見出したいと思うのです。

外語祭には、踏切の遮断機のように「上からの秩序」を作り出す存在は必要ないでしょう。
私たち外語祭実行委員会も踏切のように「分断」を生み出しながら外語祭を作り上げているわけでは決してない。
となれば主役となる外大生が、自身の強い意志で作り出す交差点のようなカオス、そのカオスに通底する良心に基づいた「内からの秩序」がきっと外語祭を形作っていくのではないでしょうか。
そして、自分自身を含め、外語祭に関わる全ての方がこの秩序に触れて、何かを感じてくれたならば、それはとても素敵なことではないかと思っています。
だからこそ、きっと僕は、今年度の外語祭を以下のように振り返る、そんな予感を抱いているのです。

「踏切が好き。でもなんだかんだ、交差点も好き。」

 

キャプ(語劇局2年)