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ことばを学ぶ意味

こんにちは!ドイツ語専攻1年のとみーです。
受験シーズン真っ只中のこの時期に、スタッフブログ(以下スタブロ)で書くことはもちろん受験のことだろうなと勝手に思っていました。直前期にはどんな勉強をしていたかとか、試験にはどんな気持ちで望めばいいかとか、試験の合間の休憩にどんなおやつを食べた方がいいかとか、そんなことを書こうかなーっといろいろ考えました。しかし、ぼくのアドバイスを聞くよりも何よりも、自分を信じることが何よりも大切だと思うので受験について書くのはやめようと思います。
「受験について」がボツになったので次は外大の素晴らしさや外語祭、外語祭実行委員会について語ってみようかなと考えました。ところが自分の中で協議した結果これもボツに。理由は二つ。一つ目は、ぼくが素晴らしさについて語るのが苦手だからです。美術館に行っても「すごい」と「きれい」の二つの言葉しか出てきません。絵についてその素晴らしさをしっかりと語れる人がいますが、そういう人はすごいなあと心底思ってしまいます。ここでも「すごい」って言っちゃいましたね。まあ、要するにボキャ貧ってことです。二つ目は、まだ外大歴も外実歴も浅いぼくがその魅力を十分に語る自信がないからです。以前のスタブロの投稿に先輩方の素晴らしいお言葉があるのでぜひそちらをご覧ください。ぼくも2、3年後には魅力をしっかりと正確な言葉で伝えられるように精進していきたいと思います。
さて、ここまででスタブロで書くネタのツートップがボツになってしまったわけですが、もう一つネタがあったなあとふと思い出しました。前置きが長くなりましたが次の段落から本題に移りましょう。
ここからはぼくが昔からずっと考えていたこと、そして外大生なら一度は考えるであろうこと、「ことばを学ぶ意味」について話していきたいと思います。グローバル化がすすむ現代において母語しか話せませんというのは望ましくないと考えられています(というかぼくが勝手にそう考えられているんだろうなと思っています)。しかし、一方で科学技術の進歩に伴って翻訳という作業がどんどん簡単になっているというのもまた事実です。5年くらい前までは簡単な文しか正確に訳せなかったGoogle翻訳も今では、少し難解な文もしっかりと訳してくれます。ドラえもんのほんやくコンニャクの現代版のようなものも開発され、言葉の壁は着実に崩されています。そこで先ほどの「ことばを学ぶ意味」が問われるのです。翻訳機が発達したのであれば、言語なんて学ぶ必要がないじゃないかと皆さん思いませんか?正しく聞こえるかもしれませんが、ぼくは全く間違っていると思います。その理由をぼくが専攻しているドイツ語を例にして説明します。
ぼくは今オーストリアのウィーンで3週間の短期留学をしています。ウィーンの人はほとんど英語が通じて正直、ドイツ語を学んでいる意味ってあるのかなと思ってしまいました。ただでさえ、そこまで話者の多くないドイツ語でしかも、話者のほとんどは英語を話すことができるという状況。そう思ってしまっても仕方のないものでした。しかし、週末にチェコやスロヴァキア、ハンガリーなどの中東欧の国々に行ったときにドイツ語がこれらの地域の第二外国語としての地位を占めているということを実感しました。これらの地域でドイツ語が第二外国語として定着しているのは、もちろん現代におけるドイツの影響力が大きいからでしょう。しかし、それに加えて歴史的な背景も関与していると考えられます。これはドイツ語だけに限った話ではなく、全ての言語について共通して言えることです。言葉はその言葉が話されている地域の歴史、文化、芸術そして人柄をよく表しています。翻訳機を通してでは伝わらない、その言葉でコミュニケーションをしないと伝わらないものはたくさんあります。だから、翻訳機が幾ら発達してもことばを学ぶのだと思います。少なくともぼくはそう考えています。
脈絡もないだらだらとした文章になってしまいました。この文章を読んでくれた皆さんと、外大でことばを学ぶ意味について語り合える日を楽しみに待っています。最後まで読んでくれて本当にありがとうございました!!
最後に、外大に入ると言語を学んでくるという名目でこんな素敵な場所に行けちゃいます(ザルツブルクのホーエンザルツブルク城からの景色です)。