こんにちは、
先週誕生日を迎え、ティーンブランドどころかハタチブランドも失ってしまった 語劇局3年の ゆ です。
外語祭まで残り2週間。本当に毎日が充実しており(忙しい)、ブログの更新担当もすっかり忘れておりました。すいません。
さて、外実ブログには3回目の登場となりますが、ついに書くネタをうしなってしまった(し、忙しすぎて考えるヒマもない)(2回目)(いやでもほんとに忙しい)ので、わたしの大好きな本に載っていた話を共有します。
本を読むことがなかなか習慣にならないわたしですが、1冊だけ、悩んだ時に必ず読む本があります。
本というより、テーマごとに分かれている短編?名言集みたいなものです。読むというより、パラパラめくって、書かれている様々な考え方を見て、一緒に悩む感覚に近いです。
最近は、自分の今いる立場でどのように振る舞うべきかを悩んでいたので、「責任」というテーマで、この本に相談することにしました。
今回もたくさんの印象的な文章に出会えたのですが、そのなかでも、「責任(responsibility)は、responseするability」と捉えているものが最も心に残りました。
…………こういう考え方をしたことがなかったので、純粋に感動しました。(おそらくこの文章を書いた人は、これが最も伝えたいことではないですが、わたしはこの一文を断片的に切り取って紹介します)
なぜならわたしにとって責任とは、ある行いがうまく行かなかった際の原因の所在が自らに置かれることを意味し、責任を持つということは、行為に対する義務に近いものだったからです。そのため、わたしのなかで責任は、「持たなければならない」ものというイメージが大きかったのです。
責任を持つことなんて、子どもじゃあるまいし、当たり前じゃん。と、
頭では分かっています。まして責任から逃れたいわけでもありません。
ただその一方で、
責任が生み出す重さとその義務感に、
どこか対応しきれていない自分がいる気がして、
周りの優秀な同期たちや後輩たちと比較して、3年目なのに未だに外実のお仕事をうまくこなせていない自分に落ち込んだりもして、
ここ最近は自分が追い込まれる状況を自分で作りだしていました。悩みまくりです。
けれど、この一文のように、
責任がもし、ある行為に対して答える能力を指すとすれば、
わたしが今一生懸命やるべきことに対して向き合っているだけでも、十分に責任を持つことができていると言えるのかもしれない。
同時に、
責任が、個々人の能力であるなら、他人と比較して自身の責任感がうんぬん〜〜と気にする必要すら、実はないのかもしれない。
なぜなら、
たとえ個々人の能力に差があったとしても、みんながある行為に対して自分の能力で答えているのであれば、「責任感のない」人なんて最初からいないことになるからです。
たとえ仕事の処理能力に差があったとしても、それはあくまで仕事をこなす上での問題であって、責めるところではなく、むしろチームとして受け入れるべきです。仕事の処理能力が、責任感の有無に結びつくわけではないし、そんなことを思う人に少なくともわたしはなりたくありません。
仮に「責任感がない」としたら、
それは多分、自らの能力を活用しようとしなかったり(怠惰に近いのかな?)、それを意図的におこなっている(責任から逃れようとしている)ことを指すのだと思います。
やればできるはずの能力を備えているのに、あえてやらないのであれば、それは自分自身の能力に対する裏切り行為と言えるかもしれません。
ここまで考えると、責任とは「持たなければいけないもの」ではなく、むしろ、
自分自身と交わす約束(自分の能力できちんと答えていく)のようなものなのかもしれません。
…………さて、今日は、大好きな本とのお悩み相談会で、こんな一文に出会い、そしてこんなことをだらだらと考えてみました。
悩みに対する答えはそう簡単に出るものではありません。なので今日はこの辺でやめておきます。みなさんも時間がある時にぜひ続きを考えてみてください。
とりあえず、
今のわたしにできることは、自分の能力を信じて、
自分自身が自分を裏切ることだけはないように、
精一杯持てるだけの責任をもって、
今年も多くの来場者の方に外語祭を楽しんでいただけるよう、わたしなりに貢献することだとおもいます。
わたしに限らず、外実をはじめ、
外大生のひとりひとりが責任を持って作り上げるこの5日間は、あなたがまだみたことのない世界を魅せてくれると、確信しています。
ぜひとも、外語祭に広がる世界の日常をのぞきに来てください。
わたしのオススメはもちろん語劇です。
写真は去年のアゴラ。5日間だけ、世界と繋がるシアターに変身します。
多くの方のご来場を、このシアターにてお待ちしております。
ゆ (語劇局3年)