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ここに至るまで

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深夜2時。
はてさて、何を書いたものか。
書こうとするならば、きっと、稚拙にして長文、なかなかにつまらない文章になるだろうか。
頭が回っていないのだ。ご容赦いただきたい。

さて、まずは自己紹介でもしてみようか。

小学生の時に宗田理の書いた「ぼくらの七日間戦争」に出会った。それから私は読書家となった。小説家とはどうしてこうも面白い文章が書けるのか、美しい日本語が書けるのか。それから小説家を夢見るのだが、中学生にもなると、小説家という職業は全員が全員なれるわけではないらしい、才能が無いとなれないらしい。そういったことに気付く。どうやら小説家というのはなかなかに現実的な夢とは言えないみたいだ。そこで次なる将来の夢ないし職業を探すことになるのだが、小説家が日本語を自由自在に操る職業ならば、日本語を他者に教授する日本語教師はどうだろうか。そこでその職業を色々と調べていくなかで、とりあえず日本語学科のある東京外国語大学を目指すに至る。

こういう経路で外大に来たのだが、何故自分が外語祭実行委員会に入ったのか。それは高校生の時に遡る。

自分が初めて外語祭に来たのが高校一年の時。当時中高一貫の学校に通っていた私は、高校一年の段階で大学のオープンキャンパスや学園祭に行くよう、学校からレポート課題のようなものを課されていたため、いくつか学祭を回っており、最後に来たのが外語祭だった。来てみたらどうだ。他の学祭にはない世界が、そこに広がっているではないか。目の前にあるのはただの文化祭ではない、世界をそのまま連れてきたかのような、そんな学園祭であった。キャンパスを少し歩けば、世界の言語や文化に満ち溢れていた。

自分が高校生の時は、かなり珍しい薙刀部(それも男子で薙刀を始めたので、男子の競技人口は指で数えられる程度だった)に所属していて、高校の文化祭実行委員などに入っている余裕も無ければ、あんな面倒なものやってなるものかという気持ちでいた。そんな自分が大学では外実に入った。それは高校一年の時に出会った外語祭があまりにも印象強く残っており、加えて他にはないこうも特色に溢れた学園祭を裏から支えるのはさぞかし楽しかろう、そう思ったからだ。

入会して所属した先は屋内-装飾局。
この屋内-装飾局というのがこれまた面白いところで、自分が入った当初は創設3年目の新局なのであった。新しい局とは言え、何も無いところから生まれた訳ではない。先輩たちから聞いた話では案内表示チームとガレリア装飾チーム、そして事務局の屋内班の三つが合併してできたのが、この屋内-装飾局なのだという。

この局、一見すると屋内を装飾している局と捉えられがちなのだが、それは違う。屋内-装飾局(通称おくそう)とは、「屋内」と「装飾」の仕事を管轄する局なのだ。「屋内」は研究講義棟や体育館、大学会館の和室で行われる屋内企画・ゼミ企画の管轄をしており、「装飾」では屋内に限らずキャンパス全体を装飾しているのである。新歓の際でもよく言っていたのだが、「屋内」と「装飾」の仕事をするのが屋内-装飾局なのであって、屋内を装飾する屋内装飾局ではない。このハイフン「-」こそが大事なのだ。

先述の通り、自分が外実に入会した時点では屋内-装飾局はまだ3年目だったのだが、しかし既に3年目なのである。ある程度、地盤も固まっていた。

大学一年生の時、先輩たちも沢山いて、結構甘やかされて過ごしてしまった。
外実で何か新しいことをやろうとするには、4月の段階で詳細を固め、それに関連する予算申請や外語祭期間中に必要なシフトの申請をしなければならないのだが、自分がおくそうに入って担当が決まった頃にはその申請はとうに終わっており、自分は先輩方に与えられた仕事だけをただするのみで、自分から何かを生み出すことはなかった。親しみやすく優しい先輩方に仲良くしてもらいながら迎えた95th外語祭はあっという間だった。気づいたら終わっていた。楽しかった。来年もやろうとは思った。ただ、正直な話がそこに達成感はなかった。

大学二年生の時、去年の3年生は引退し、96thの春学期では先輩たちがたった4人で、秋になれば半分が留学に行ってしまい残る3年生は2人だけとなってしまった。春学期。一年生の時はよく分からないまま仕事をしていたのだが、春学期になるといきなり仕事を任され、かなり焦ったことを記憶している。二年生になっていきなり予算だシフトだなんて言われても正直知らん。総括を読めと言われても、その総括は95thの終わりに何も分かっていない状態の自分が書いたものなのだから、読んだところで分かる訳も無い。先輩達が留学に行ってしまった為に、自分の受け持っている担当の殆どが、秋からは自分が最上級生となるわけだ。先も言った通り、95thは一瞬だった。それは先輩方が仕事を行い、一年生の自分には殆ど仕事が回されなかったからだ。自分の持っていた担当がそうだった訳で、自分の同期も同じ感じだったかは知らない。しかしながら少なくとも自分はそうだった。何も分からないなりに何とか96th外語祭を乗り切った。96thでは後輩たちの力を借りながら、研究講義棟内の直線階段の装飾を一新し、サークル棟側には風船装飾なるものを作り出した。するとどうだ。95thでは感じられなかった達成感が、そこにあるではないか。

そして大学三年生。
自分は局長になった。自分の中で、今年はおくそうの飛躍の年、発展の年にすると目標に掲げた。今年がおくそう設立5周年だからという理由も若干あるのは認めるが、それに関係なく、自分がやりたかったからだ。具体的には「装飾」の拡大、そして「屋内」の整備。「装飾」というと恐らくキャンパスを華やかにするようなものを思い浮かべるだろう。勿論そういったものもあるのだが、「装飾」には案内表示というものも含まれる。案内表示とは来場者の方々に外語祭をわかりやすく安全に楽しんでいただくことを目的に、各企画場所を案内したり外語祭でのルーツを周知をするマップであったり看板などを作成するのである。二年間の経験を経て、ここにこんな装飾ができるだろう、ここにこんな案内をするような表示があると便利だろうと、色々と検討し、かなりの数の装飾を作り直し、そして今までにない装飾を新たに作成した。装飾総入れ替えと言っても、まぁ過言ではないだろう。「屋内」に関しては書類の作成方法や業務の運営方法について見直した。しかしながら、「屋内」については自分が不勉強なところも相まって、97thでは課題の洗い出しに徹する形になってしまった。これをいかに98thに繋げられるようにするか、それが自分の責務かと思う。
今年はおくそう史上一番凄い年にしてやろうと自分が勝手に目標を掲げて実行に移してきた訳だが、自分にはそれを実行できるような絵を描くスキルやアイデアを生み出す才能も、効率よく物事を進められる器用さもない。そんな中でここまでやってこられたのは、他ならぬ大切な同期と後輩たちのおかげだと思う。かなりの無理をさせて申し訳ないなと思うし、これについてはあまり信じてもらえないのだが、感謝もしている。沢山の人たちの力を借りて進めてきた97th外語祭。これを終えた時、果たして自分は一体何を思うだろうか。

外語祭とは外実含め外大生全員が一丸となって作りあげるもので、これまたなかなかに凄い学祭かと、私は思う。是非一度、目から耳から口からと、全ての感覚をフルに活用して外語祭を体験してほしい。そして97回目とはいえども、毎年毎年発展をし続ける外語祭。同じ外語祭は二度と来ない。

しかしながらそんな外語祭は我々にとってかなりの達成感や充実感を得られるものである一方で、それなりに代償を伴っているかとも思う。外語祭の準備に当たって勉強時間が削られたり、語科内で揉め事になったりと。外実に入っている本部員ならば前者の代償は顕著だろう。自分は外語祭が好きだし、外語祭に係る労力についても何ら厭わない。ただ、全員が全員、そういう風にはいかないだろう。今の状況と来年の状況と鑑みて、来年は主専攻の授業が更に難しくなったり、ゼミが始まったり、留学や就活があったりと、各々抱える事情や優先順位も異なるだろう。
外語祭や外語祭実行委員会というのは、正直な話がただの一イベントであって一サークルな訳だ。人生のある一瞬をかけることはあっても、今後の人生全てをかけるものではないと思っている。そして誰かが自分の大好きな外語祭で後悔をして欲しくないとも、切に思う。今年の外語祭は、今年限りだ。各人思うことも多分にあるだろう。今年の外語祭を経て、来年の外語祭を如何に迎えるか、じっくりと考えてみてほしい。

願わくば、第97回外語祭が貴方達にとって大事なものとならんことを。

写真は夜間巡回後の講義棟
この静かながらも外語祭に彩られた講義棟を見るのが、この上なく好きなのだ。

 

ひろや(屋装局長)