こんにちは、事務局1年のいっちーです。
外語祭も終わりまして、早12月。すっかり空気が乾いてますます寒くなってしまいました。これをお読みになっている皆様はどうか体調に気をつけてお過ごしくださいね。折角このような場をいただいているのに書くこともあまり思いつきませんで、仕方がないですから日頃思っていることを少し書き出してみたいと思います。よろしければお付き合いくださいませ。
東京外国語大学には、かつて日本語科がありました。2018年度入学までは存在した語科であります。2019年度からは国際日本学部に改組され、日本人学生は専攻言語が英語となりました。実際には日本語と英語を両方学ぶイメージでしょうか。ここに私は二つの意義があるように思います。一つは「英語で日本のことを学ぶ」ということであります。国際日本学部においてはよく言われることですが、英語、即ち日本語でない視点から見ることによって、日本にはない新しい見識を得、対象そのものを客観視しうるということです。これは私がこの学部に所属していてまじまじと感じることであります。英語で書かれた文献には今まで見たことのない内容もさまざまに含まれている、これを読んだ時に既存の知識のストックに強烈なアップデートがかかる。すると他の事象を学ぶときにより客観的な視点で物事を見られるようになるのであります。母語でない言語で文献を読み解くのは時に苦痛を伴いますが、しばしば得るこの喜びは何にも変え難いものがあるように思うのであります。
もう一つは、「母語で改めて日本語や日本そのものを捉え直す」ということであります。日本語を母語とし、日本について語ろうとするとき、私たちは存在する全ての事象について湯水の如く語り得るわけではありません。むしろ言葉に詰まったり、あるいは知識の蓄積がなかったりしてもどかしい思いをするのであります。これは日本語の運用能力そのものにおいても言えることであります。例えばこのようなシチュエーションを考えてみましょう。自分の組織にいる上司に、組織の外にいる目上の方からの伝言を届けたい。この時、組織内の上司に対して敬語を使うのは前提であるとして、組織外の方にも同時に敬意を示さなくてはならない。こういうシチュエーションに立った時に、「〇〇にお伝えします」というストックしかなくて、結果上司しか敬意を示せない表現になる。この時「〇〇に申し伝えます」というストックの有無で言葉を受け取った相手のイメージは大きく変化するのであります。日本語の繊細さを評価する日本人は数多けれど、その本質について正しく知りうる日本人は思っているよりもずっと少ない。私はそのように思うが故に、母語そのものを、あるいは母語でそのものを捉え直す機会をきちんと得たいと願うのであります。尤もかつての日本語科でありましたならこちらの二つ目の意義を明確に理解できたのでありましょうが、国際日本学部においては前者の意義の方が専ら強いようであります。
ところで日本の教育課程を経る児童生徒は「国語(現代文)」という科目を少なくとも12年受けたのちに晴れて大学に入学するのでありますが、これがもし「日本語」という科目であったならどのような印象の変化を受けるでありましょうか。私は世界の中にある一言語としての側面がより強くなるように思います。「国語」という表現は日本が自身のアイデンティティを示す、また国内の統一した一つの言語たる日本語を強調するためにあるように思います。それがあくまでも慣習的に続いているだけであって、むしろ英語圏の“English”のように言語そのもので呼んだっていい。今私が言っている「日本語」を学ぶというのは、「国語」に見るドメスティックな表現ではなくて、あくまでも言語を相対的に見た学びであります。日本もずいぶんな数の民族を知らぬうちに擁する社会になりました。日本語をめぐってはさまざまな軋轢や潜在的差別が起きています。しかしながらこうした問題はなかなか日の目を見ない。私は折角こうした諸問題について見識を深められる大学にいるのですから、こうした環境の中で最大限の学びを得て巣立ちたいと常々思うのであります。一方で先の論を覆すようですが、中等教育まではあえて「国語」でいいのではないか、私はそうも思っています。いきなりインターナショナルな学びから入っていって、日本語を相対的に学んだって当然いいのですが、やはり日本語をきちんと習得してから世界のことを考えると理解はより深まる。その中で時に承服しかねる事象があったりしていいのです。学んだことの全てが唯一無二の解ではないのですから。そしてドメスティックな学びが、いずれインターナショナルな学びの土台になり、個人のアイデンティティになる。それから時にアポステリオリな知識を卑下する人がいますが、アプリオリな知識があってはじめてアポステリオリな教養が手に入るのだと私は思います。たとえそれが間違っていたって、試行錯誤すればいいのですから問題はないのであります。広義の「日本語を学ぶ」、つまり日本語と国語を学ぶというのはそうした広範な自己形成、自己実現のための通過点に過ぎないのであって、たとえ大学で実学を学ぶ人にあっても、試行錯誤の本質たる言語的視点から見た諸学問の捉え直しが必要であるというのは一外大生として強く抱く信念であります。
外語祭とは全く関係ない話なのにずいぶん長くなりました、ここまでお読み下さって本当にありがとうございます。
写真はいつぞやに訪問した埼玉の飯能にあるムーミンバレーパークの写真です。暑いのも寒いのも苦手なので、早く暖かくなってほしいと願う私なのでありました。ではまたいつかこのブログでお会いしましょう!
いっちー(事務局1年)